「カミングアウトして、応援される」って、なんだか少しだけ居心地が悪い・・・そう感じたこと、ありませんか。応援はうれしい。でも、わざわざ応援されるということは、自分はやっぱり「ふつう」の側にはいないんだ、と突きつけられているようで。差別されるのは論外だけれど、特別扱いされるのも、本当はちょっと違う。僕がずっと願ってきたのは、たぶんそんなに大それたことじゃありません。ただ、ふつうに生きたい。それだけなんです。応援も、腫れ物扱いも、どちらもしんどいLGBTQの当事者でいると、人の反応がだいたい二つに分かれることがあります。ひとつは「すごいね」「えらいね」という応援。もうひとつは、急に言葉を選びはじめる、あの腫れ物にさわるような空気。どちらも悪意があるわけじゃない。むしろ善意なのは、よくわかっています。でも応援されればされるほど、腫れ物扱いされればされるほど、「ああ、自分は特別な存在として扱われているんだな」と感じてしまう。本当はただ、その他大勢のひとりとして、特別でもなんでもない顔で、そこにいたいだけなのに。「ふつう」って、誰のものなんだろうそもそも「ふつう」という言葉には、ずっと違和感がありました。誰かにとっての「ふつう」は、別の誰かにとっては「ふつうじゃない」もので。その線引きは、いつのまにか誰かが勝手に引いたものだったりします。恋愛の話になったとき、「彼女いるの?」と当たり前のように聞かれる。家族の話になったとき、結婚や子どものことが当たり前のように前提になっている。悪気はない。でもその「当たり前」の中に、自分の居場所がないと気づく瞬間は、何度経験しても少しだけ寂しいものです。僕も、そうでした。だからこそ思うんです。「ふつう」を、もっとゆるくしたい。誰かが決めた一本の線じゃなくて、いろんな生き方が当たり前に並んでいる、そういう「ふつう」に。説明しなくていい関係が、いちばん楽特別扱いされたくない、というのは、要するに「説明しなくていい状態」がいちばん楽だということなんだと思います。自分が何者かをいちいち説明して、理解してもらって、受け入れてもらって・・・そのプロセス自体が、本当はけっこう疲れる。受け入れてもらえるのはありがたいけれど、「受け入れる/受け入れられる」という関係性そのものが、すでに対等じゃない気もしてしまう。理想は、説明もいらない、身構えもいらない、ただ「そういう人なんだ」で流れていく関係。そこにあるのは受容ですらなくて、ただの日常です。ふつうって、たぶんそういうことなんだと思います。会社の名前に込めたこと僕がやっている会社の名前には、ordinary——「ふつう」という言葉が入っています。ふつうに恋をして、ふつうに働いて、ふつうに歳をとって、ふつうに誰かと暮らす。そんな当たり前が、当たり前にLGBTQの人にも開かれている。そういう社会をつくりたくて、この名前にしました。特別なヒーローになりたいわけじゃない。気高い物語の主人公になりたいわけでもない。ただ、その他大勢の中に、なんでもない顔で混ざっていたい。たぶん、そう願っている人は多いと思います。「ふつうに生きたい」。それは小さな願いに見えて、実はまだ、誰にとっても当たり前にはなっていない。だからこそ、言い続けたいと思っています。ひとりで「ふつう」を抱えなくていい特別扱いも腫れ物扱いもいらない、ただふつうでいたい——その感覚は、なかなか言葉にしづらいものです。でも、同じように感じている人は、思っているよりずっとたくさんいます。O-DINARYでは、肩肘張らずに集まれるイベントや、ただの日常を分かち合えるコミュニティをつくっています。特別な誰かとしてではなく、ふつうのひとりとして。よかったら、のぞきにきてください。